高橋修一のエッセイ
上毛新聞 2002年4月17日掲載
新建築基準法:職人の技が消失の危機
一昨年、建築基準法が大幅に改定された。構造部門はかつての阪神淡路大震災の経験を受けての大改正ということなのだろうが、こと木造に関していえば、過去から脈々と受け継がれてきた伝統技への敬意と、その技を継承育成しようとする気概が全くといっていいほど見られない。美と堅固な架構を同時に求めて、金物使用を極力排してきた大工職の技は、国の定めた法によって今、消失の危機にさらされている。
これまで多くの知恵を職人の経験に負うてきたことを忘れ、学究データのみが横柄に振る舞う時代となった。建築指導課の役人たちは、使用すべき金物のリストペーパーを片手に現場にやって来る。いよいよもって木造の世界は、仕口・継ぎ手の妙を知らぬ者だらけとなっていくことだろう。
「どうしても金物なしでやりたければ、学問的に実験データをもって示せ」という形で選択の可能性は残したということのようだが、職人の世界にそれを求めることは事実上困難だ。過去の大地震、関東大震災をくぐり抜けてきた木造はこの世にたくさんある。われわれがかつて東京本部として使っていた建物は、明治初年に建てられたものであったし、現在の仕事場はさらにさかのぼって築後百八十年を経ているともいわれる。
私は、住まい塾運動を通じて、職人のもつ伝統の技を現代の空間の中に生かす心掛けでやってきた。ここに新たな生きがいを見いだした職人たちも少なくない。そんな中から生まれた神戸エリアでの六、七軒にも、あの大地震で大きな被害を受けたものは一軒もなかった。
そういう実績があっても、伝統の仕口・継ぎ手ではダメだ、とする根拠はいったいどこにあるのか。データとは、あくまで実験装置につながれた試験場でのみ得られると決まったものでもあるまい。
この国に大きく欠けているのは、学究偏重に対する経験の均衡である。倒壊実験による学問的分析も大事には違いないが、倒壊しなかったもの、軽微な損害しか受けなかったものの経験的分析はさらに重要だ。こうしたバランスのとれた関心が貫かれていれば、これまでの実物大の実験実績は信頼しうるデータとして、もっと生かされることになっただろう。
伝統とは、これまで開拓された幾多の先人たちの功績が土台となっている。長い歴史の中で培われ、受け継がれてきたこの貴重な技を、法の名のもとに葬る行為を誰もテロとは呼ばないけれども、これによって輝きを失う職人の多さを思うと、見えざる国家的テロのごときものに私には映る。テロとは、一見民主的と見える手続きの中にも潜むのである。
どちらも高みに立つことなど望みはしないけれども、私は学究者たちの研究成果と生身の身体を張って生きてきた職人たちの経験とが同じ机の上で議論され、フェアな関係を保つことを望む者だ。国の将来を左右しかねない国家的基準はそうした厚みのある構造の上に築かれるべきものだ。