高橋修一のエッセイ

上毛新聞 2002年6月12日掲載

「家造り」

◎安易な入手ぶりに驚く

 こんな時世での運動だ。首相のような浮かぬ顔になる前に、私の気分はとうに諦観(ていかん)の境地に達している。 

 手厳しいローンを二、三十年も払い続ける住宅のあまりに安易な入手ぶりに、私はこの二十年間唖然(あぜん)としっ放しだ。二、三十年といえば労働人生の大半だ。住空間の人間に与える影響は想像以上に深い。 


 このことは経験してみれば分かることだが…と書いて気づいたが、家を建てるのはせいぜい生涯に一度か二度の経験だから、それが分かるような住宅を造り得なかった人は、この味を知らぬままこの世を去ることになる。 


 私は家造りをスクラムワークと呼んで、私お金出す人、あなた造る人、の関係ではろくな家はできない、と言い続けてきた。あなたも私も、そちらさんもあちらさんも、関係する人々は皆家造りに参加するのである。表立っては設計者、施工職人、建て主ということになるのだが、見えぬ裏方で携わる人たちを含めれば、その数は膨大なものとなる。せめてその最終段階に携わるわれわれは、見えぬ人々の労苦を生きた形で結晶化させるためにも、単にお金を媒体にしたような関係を脱して、それぞれの役割を怠りなく果たさなければならないと思う。 


 考えてみれば一戸の家造りとは、自然界の素材の命と、かかわる多くの人々の人生との結晶のようなものだ。設計者、施工職人の役割は分かるが、建て主はいったい何をするのか、とよく問われる。生活センスを磨き、生活観を深めてよき生活者になることであり、それは取りも直さずいい要求者になることと同義である、と私は考える。 


 しかし今時、そんな面倒な手続きを踏まずとも、契約を済ませ、金を出して、あとは数カ月待てば家は完成する、といったご時世だ。そこから生まれるものがどの程度のものか、じっくり検証してもらいたいものだ。 


 住まい塾運動を始めて二十年になる。さすがに建て替えた人はまだいないが、「今の家は娘夫婦に譲って、私たちはもうひとまわり小さい家を…」、あるいは「別荘を…」といった形で二軒目の人がぽつりぽつりといる。 


 先にある別荘を建てた人が、完成祝いの席でこうあいさつした。「二十年近く前の分譲地に私たちは家を造りましたが、周りは今建て替えラッシュです。私たちは特別金持ちでもなければ、別荘など建てられる身分ではないのですが、家を建て替える必要がない分、こうして別荘を持つことができたのです…」 


 私はこのあいさつを聞いていて、なるほどこうだと思った。別段別荘うんぬんの話ではないが、急(せ)いて短寿命の家を造ることでわれわれは、大金を浪費していることに一日も早く気づかなければならない。そればかりか、生活の中をも大きく狭めてしまっている。娘夫婦に譲れた人も、二十数年で壊される平均寿命の家など造っていては、自分たちのための小さな家は造れずじまいに終わったかもしれないのだから…。